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腰のあたりまでまっすぐに伸びた、長く美しい黒髪。世界でたったひとつだけの太古ギターを構え、ステージに立つ日出克さんの姿は、不死身の剣豪か、悟りを拓いた求道者を想わせる。 |
フォークデュオからロックバンドへ 八重山の竹富島。オキナワン・プログレッシブサウンドの代表者である日出克さんは、七人兄弟の第五子として生まれた。本名、亀井日出克。長男長女次女三女四女次男五女の中で、下から二番目の子供だった。祖母は種子取祭の唄い手で、祖母の唄を子守唄に幼年期を過ごした。 幼稚園の頃からは、石垣島で暮らし始めた。島の中でも特に芸能が盛んな家庭で、家にはギターがあり、兄弟が順番に覚えていった。フォークが好きな姉の伴奏をつとめ、日出克さんは自然とギターの弾き方を学んだ。 中学へ進学すると、同級生の中でもずば抜けてギターがうまい日出克さんは、友人とフォークデュオを結成。オリジナル曲を作ると、その歌が学校中で大流行した。卒業式でも歌われ、5つ下の後輩達の卒業式でも歌い継がれたほど人気があった。すでに、この頃から音楽で食べていくことを意識し始めていた。中学の途中からは、浅川マキや憂歌団など、渋い大人の音楽を聴くようになっていた。そして高校へ進むと、プロデビューへのシミュレーションを立て始めた。 やがて高校を卒業すると東京へ渡った。ライブハウスを中心に活動を始めるが、全国から集まるプロミュージシャン予備軍の歌や演奏がうまいことに圧倒された。 「このままじゃ、いつまでたっても目が出ない。もっと洗練されないと…」 20歳でいったん石垣島へ戻ると、石垣では初めての、オリジナル曲を演奏するロックバンドを結成した。当時全盛だったオフコースや安全地帯などに刺激され、それまでのフォークデュオのスタイルから、オリジナル曲をバンドアレンジする作業に専念した。 『やもり』と名づけたそのロックバンドはNHKのヤングミュージックフェスティバルなど各種のコンテストで入賞。石垣島では大ホールを満員にするほどの人気で、腕に磨きをかけた日出克さんは、再び東京へ渡った。 27歳 太古ギターとの出会い 上京すると、内装のクロス貼りや機械警備の配線工事など、職人系のアルバイトを始めた。そして、様々なミュージシャンのバックを努め、ギターの腕にさらなる磨きをかけていった。 そんなある日、世田谷区明大前のいきつけの楽器店で、不思議な形をしたギターと出会った。店主が趣味で作った、ボディに牛革が張られた洋風な音の出る和風なギターだった。最初に見た時、「あまり良くないな…」と日出克さんは思った。外観と音のイメージがマッチしない。欲しがる人もなく、そのギターは店の片隅に放り出されていた。しかし、そのギターにシタール(インドの民族楽器)のチューニングをしたところ、とてつもなく魅力的な音を奏でるようになった。 「このチューニングになった時、どきっとしました」と、日出克さんは当時を振りかえって語る。 「君に似合っているからあげるよ」と店主が日出克さんにプレゼントしてくれた。 日出克さん27歳。太古ギターとの出会いだった。 大ヒット曲「ミルクムナリ」誕生 日出克さんは、太古ギターのとりこになった。太古ギターを中心にした、太古ギターのイメージの曲を作り始めた。当時、横浜に借りていた部屋にこもりきり、楽曲作りに専念した。コンピュータミュージックのはしりの頃で、家でほとんどのことができることに、満足していた。 太古ギターのアジアンチックなイメージから、感性が沖縄へと向かっていった。それまで、曲を作るうえで一切考えていなかった、沖縄のことを意識するようになった。その頃から、沖縄民謡を聴くことができるようになってきた。当時、石垣島で育った若者にとって、民謡を聴くということはてれくさくてありえないことだった。日出克さんは、ピンクフロイドなど海外のミュージシャンをよく聴いていた。 そして、代表作「ミルクムナリ」が誕生した。ミルクは「弥勒」で、ムナリはインドネシア語で「踊る」の意味だ。「豊年の踊り」を意味した曲名で、島に伝わる口説(くどぅち)が歌詞となっている。 泡盛のCMソングに使われると記録的な大ヒットをとげ、沖縄の伝統芸能・エイサーの演舞曲として使われるようになった。 「ミルクムナリ」は沖縄を代表する楽曲として、海を越え、本土や世界の様々な場所へと広がっていった。 33歳 東京から沖縄へ 「自分の場合、曲がエイサーと結びついたのがラッキーでした」と、日出克さんは謙虚に語る。 メジャーデビューの頃は、横浜に住み渋谷の音楽事務所へ所属していた。しかし沖縄での活動が増えてきたことで、故郷沖縄へと活動の拠点を移した。 豊見城市真玉橋のホームスタジオ。1階がスタジオと事務所スペースで、2階が自宅となっている。柔らかな光がさしこむ美しい空間と、木のぬくもりが伝わるスタジオを、日出克さんは自らの手作りで仕上げた。職人系のアルバイトで培った技術が、随所に生かされている。 日出克さんの朝は早い。6時半に起きると、7時半には創作活動をスタートさせる。 「真っ白な頭がリセットされ、なにもない状態がいいです。経験上、早朝だなと思っています」 8時から9時頃までに、楽曲の核となるアイディアを出すと、そのあとはレコーディングなど実務的な作業へ入っていく。楽曲制作の合間に、大工仕事や絵を描いたり、また楽器の廃品でネックレスなどのアクセサリーを作ったりして、気分をリフレッシュさせる。 そして、夜の10時頃まで地道な作業を続け、11時頃には就寝している。 「沖縄のなにかを自分が伝えられるとしたら、沖縄の音楽の入口を自分が作れるのではないか。それが沖縄を知るきっかけとなり、あとは古典など昔からある沖縄の音楽にたどりついてもらえたらうれしいですね」 自らの楽曲制作だけではなく、他のアーティストのプロデュースや、エイサー、琉球舞踊、CM、映画など様々なジャンルへの楽曲提供など、日出克さんの活動は多岐に渡る。 日出克さんの音楽は沖縄だけにとどまらず、無国籍なワールドミュージックとして、壮大な世界観を生み続ける。 | 日出克さんのリフレッシュ法 ◎絵 小さい頃から好きで、よく描いている。◎アクセサリー制作 廃品を使うのがテーマ。ギターの弦や電子部品などを組合わせ、素敵なネックレスなどを作っている。![]() 「まず、やめないこと。止まると、今まで続けてきた感性がすべて終わりです。やり続けていく中で、自分しかできない音を探し求めていく。そして、ただやっているだけではなく、常に新しいものを求めていく姿勢が必要です。また、あっと思った時にはチャンスをとらえること。さらに、ライブだけでなく、曲を書いたり、アレンジができたり、音楽のことが総合的にできれば食べていくことができると思います」 Imformation 『MANDA-LA』\3,300(DVD 付) ●悠久に木霊する旋律と静寂から立ち上がる歌がある。 日出克ニューアルバム[MANDA-LA]と、DVD[御知行]の2枚組。 1.御知行(Uchijo) 2.天降り(Amaui) 3. MANDA-LA 4.ことづけ 5.恋慕〜Tenacity~ 6. Gift 7.蒼の謡 8.島宇宙〜BALANCE~ 9. Atcham 10.あがろうざ (全10曲) www.hibiki-inc.com ![]() |


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