27年前の大阪・キタ。
石嶺さんは料理人になるため、大阪へ修業に出た。小学生の頃、石嶺さんの実家は海洋博の労働者向け下宿屋を営んでいた。母親が大勢の人のために料理を作る姿を見て育った。子供心に料理人になりたいと思うようになった。高校を卒業すると、すぐに大阪へ飛び出した。親戚が大阪にいたので、大阪弁は苦にならなかった。
ニューミュンヘンという巨大なビアレストラン。和洋中などあらゆる料理を提供する大型店だった。1年目は洋食部門に配属された。
板前の仕事は、出勤時間があってない。仕込みのため、始業の2〜3時間前に出勤することは当たり前だった。上下関係も厳しかった。スポーツが大好きで明るい性格の石嶺さんも、標準語の敬語使いには苦労した。一生懸命に敬語を使うがなかなか伝わらない。

生まれ故郷を出てひとり暮らしをはじめ、親のありがたさが身にしみた。すべてを自分ひとりでやらなければいけなかった。大好きな「てぃんさぐぬ花」の歌詞のように、親の言うことを聞いてきちんと守っていれば、世の中は渡っていける…と実感した。
和食が大好きだった石嶺さんは、2年目から和食部門へ移った。やがて、高校の同級生で、同じく大阪で美容師をしていた奥様と付き合い始めた。
料理の技術を身に付けるうち、ふぐの調理士免許も取得した。圧倒的に客数が多く、味にうるさい大阪人を相手に、石嶺さんは料理の技術を磨き続けた。
大阪での生活が4年を過ぎた頃、実の兄から「浦添市西原に高速道路のバイパスができる。これから栄えるので居酒屋をやってみないか」と話があった。当時の西原は大手チェーン店や小さな赤提灯があるぐらいで、居酒屋らしい店はなかった。
大阪で4年間の修業を終え、石嶺さんは沖縄に帰ってきた。
そして浦添市西原に「大衆割烹たぬき」をオープン。石嶺さんが24歳の時だった。
店内に大きな水槽を置き、海人が獲ってきた魚を泳がせた。魚料理がメインだ。席数30名の店で客にリクエストされると、大好きな三線を弾きながら民謡を唄った。
料理の仕事と並行し、テレビ局主催のカラオケ大会など、様々なイベントに単独や親子で出場していった。平成6年には、渡久地政二民謡研究所で琉球民謡の新人賞を取得。そして、平成13年に長男の一将君が宜野湾はごろもカチャーシー大会で優勝したのを機に、親子公演のオファーが来るようになった。
そして、平成16年。大衆割烹たぬきのオープンから20周年を期に、現在の場所へ移転。念願のステージつきの店にして、大衆割烹から民謡ライブ居酒屋へと生まれ変わった。
ステージでは石嶺さんが三線を弾き、かつ唄う。長男が太鼓を叩き、チョーギナーに扮して舞う。長女や次女も太鼓を叩き唄っている。夜9時から約40分の民謡ステージが、平日2回、週末3回行われている。
石嶺さんの店には、芸能活動やスポーツ活動を通じ、様々な人脈から多くの人が訪れる。3割は県外からの観光客だ。プロ野球のキャンプシーズンには、ヤクルトスワローズや横浜ベイスターズの選手もやってくる。店で民謡ライブを見たお客様から、県外へも公演で呼ばれ、定期的に県内外で演奏活動を行っている。

子供の頃からずっと野球を続けていた石嶺さんは、5年前に当山小学校で西原バックスという少年野球のチームを立ち上げ、監督をつとめた。また、浦添ブレーブボーイズという硬式野球チームにも力を注ぎ、沖縄初の全国ベスト4にまで進出した。
仕事に民謡にスポーツに、全力投球で人生を楽しむ石嶺さんを、家族のみんなが支え合っている。
居酒屋経営を続けて23年目の石嶺さんに、居酒屋業界の将来について聞いてみた。
「いろいろなスタイルの居酒屋があります。私が思うには、これから勝負するなら専門料理でないかと思います。そばならそば、焼鳥だったら焼鳥だけに専念する。公演で本土にも行きますが、向こうではトンカツ専門やカレー専門・串焼き専門など専門化が徹底しています。商品のジャンルをひろげるのではなく、ひとつの商品を専門的に、究極に極めるのが今後の方向性ではないでしょうか」
地元で獲れる新鮮な魚介を中心に、石嶺さんの故郷である今帰仁やヤンバルから独自ルートで仕入れるアグー、そして農連市場で働くお姉さんが厳選した地の野菜がたぬきのテーブルを彩る。
今宵も民謡ライブ居酒屋たぬきの黄色い看板に灯りがともる。商売繁盛で「他を抜く」と縁起が良い、信楽焼の巨大な狸が、編み笠をかぶり抱瓶を持って、石嶺さん達を温かく見守り続けている。