「沖縄そば屋をやるぞ!」と妻に言った。
土日の休みを利用して、みずからの手で店作りを始めた。子育てや、サラリーマンとしての仕事もあり、店作りは遅々として進まなかった。そして、2年の月日が過ぎさった。知名さんは妻に黙って、11年勤めた職場へ退職願を出した。家に帰って話すと、妻の猛反対にあった。
知名さんに沖縄そば屋で働いた経験はなく、安定した仕事を捨て、ゼロからの挑戦だった。
首里汀良町(てらちょう)。尚巴志王の時代に「汀志良次(てぃしらじ)」と呼ばれた。汀良町には約500年の歴史を持つ獅子舞が伝わっている。空手の型を基本とした迫力ある演舞で、那覇市の無形文化財にも指定されている。
知名さんは汀良町で生まれ育ち、高校時代から獅子舞を続けていた。父は現在そば屋がある場所で、電気店を経営していた。父が亡くなったあと、しばらくしてそこが空き店舗のままになった。
「空き店舗をなにか活用したい…」
知名さんは獅子舞で鍛えた90キロを越える体で、独立開業へ向けて動き始めた。
3年前の4月。知名さんが36歳の時だった。

那覇市開南。アジアのカオスのような農連市場の周辺に、乾物の専門店が点在している。
知名さんは理想のダシを探し求め、乾物屋を一軒一軒回った。ダシは枕崎産の本枯鰹節が最高級品であると、ネットで調べて知っていた。
本枯鰹節は、おろした鰹を湯がいたあとに燻し、さらにカビ付けしたものだ。カビ付けすることで、焙煎や乾燥だけでは取り除けない、鰹の水分が吸い出される。そして、カビの作用で脂分が旨味に変化していく。カビが脂肪分解酵素を出し、中性脂肪を分解することで、透明度の高いダシがとれる。
しかし、沖縄中の乾物屋を探しても、本枯鰹節が見つからない。偶然に一軒だけ置いてある店を見つけた。店の片隅で忘れ去られたように眠っていた。ダシをとってみると、今までの鰹節とはまったく味が違った。濃厚なコクがあり、かつ上品なダシだった。
知名さんは本枯鰹節の厚削りを使い、みずから考案した特殊な方法で、一晩かけてダシを煮出す。長時間煮出せるのが、本枯鰹節の特徴だ。
こうして出来上がった鰹ダシに、豚と鶏と昆布のダシを加え、化学調味料を一切使わないスープが完成する。
さらに、てぃしらじそばは、中太のちぢれ麺にも、手間ひまをかけている。
知名さんは毎朝7時半に店へ入ると、小麦粉と自家製のかん水を混ぜ合わせ、麺の生地を練り上げる。そのあとで、その日のスープやジューシーを準備し、前日に切り分けておいた麺を湯がいていく。湯がいた麺は油をまぶし、ひとつひとつ皿に盛り分ける。そうして当日の仕込みが完了する。
開店直前には、朝混ぜ合わせた麺の生地を再び混ぜ合わせ、閉店までにひとつの塊へまとめあげていく。
麺打ちは孤独で根気のいる作業だ。知名さんは、独学で組み上げた、テコの原理を応用した麺打ち具で、夕方5時から麺の生地を伸ばしていく。大きな体の全体重をかけ、丁寧に伸ばす。ひとつの塊が20人前で、それを伸ばすのに手作業で約30分かかる。手で少しずつ加減しながら伸ばしていくことで、独特のコシが出ると、知名さんは分析している。ある程度まで薄くなると、手回し式のローラーへ通し、生地の厚みを均一に伸ばしている。出来上がった生地を中太麺の太さに切り分け、手作業で揉んでちぢれをつけていく。麺を打ち終わるのは夜の11時頃だ。楽しみながらやらないと、絶対に続かない孤独な作業だ。麺は一晩寝かされることで、熟成度が増していく。
鳥堀から儀保へ向け、モノレールの高架が走る環状2号線の坂道をくだる。鳥堀から約400m進んだ左側の壁面に、白地に漆黒の筆文字で「てぃしらじそば」の店名が見える。知名さんが家族や仲間の力を借りて、自分たちの手で作り上げた地域密着型の店だ。カフェのように明るくモダンな店内に、カウンターやテーブル席、板の間の座敷が並ぶ。
知名さんが手間ひまかけて作る「てぃしらじそば」を求め、サラリーマンやカップルや家族連れ、それに観光客のグループでいつもにぎわっている。
ひとりひとりのお客様のために、そして家族や仲間の笑顔のために、知名さんは獅子のように大きな体で、今日も麺を打つ。